生花店duft 若井ちえみさんの
移りゆく人生を彩る転換点
靴下の脱ぎ履きという行為はときに人を活動へと導き、安息へと誘うもの。その存在を日常生活のスイッチに見立て、クリエイターのオンやオフに通してその創造性を紐解く。今回は、いつも個性的なフラワーアレンジメントでマルコモンドの展示会を盛り上げてくれる若井ちえみさん。新店舗で新しいスタートを走り出した彼女が歩んできたさまざまな岐路と、花に溢れたクリエイティブな生活の実態を探る。
世田谷区の梅ヶ丘駅を降りて、歩いて2分ほど。建物の外観からは想像ができない世界がそこには広がっていた。花屋「duft(ドゥフト)」は、私たちが想像するような典型的なものではない。そこには今まで目にしたことのないような色とりどり、異なる形の花が並び、私たちの視覚や嗅覚に喜びを与えてくれる。
「映画が好きということと海外に住みたいという漠然な気持ちで、学生時代は特殊メイクアーティストになろうと思っていました。そこから美容学校へ行き、そのまま美容師の道へと歩んだのですが、すぐに辞めてしまいました。結局自分自身が何をしたいのか分からず、不安と葛藤を抱えたままフリーターをしていました」。
美容学校から就職、その後、花屋で働いていたのは、若井さんの地元でもある北海道。周りの友人が東京に旅立っていくのをきっかけに、東京で暮らす可能性が見え始めた。
「何をしたいか決めないで東京に行くのは挫折しそうで違うな、と思っていました。掛け持ちをしていたアルバイトの中に花屋さんもあって、そこが私の花屋で働くことへの出会いです。最初は『募集しているからやってみようかな』程度の気持ちで始めたんですが、続けられそうだと思いました。花屋以外の選択をしていれば、別の道もあったかもしれません。けれど、あの時はこの選択を信じ、やってみたいと思い進んできたんです」。
小さい頃から、絵を描いたり何かを作ったりすることが好きだった若井さん。特殊メイクに魅せられ美容学校の道に進んだのも、幼少期の経験があってからこそ。
「花屋で働き始めて、色で遊ぶことが楽しいなって思いました。美容院での下積み時代には、色とか変わることがあまりなかったので。花には様々な色や形があります。花に触れている時は、生命力を感じる特別な時間です」。
改めて「duft」の店内を見回すと、見たことのないような形や色の花がそれぞれの個性を訴えるかのように咲き誇っている。先端がクルッと回転をしているようなチューリップや、花びらがギザギザし、美しいピンクと黄色のグラデーションがかかったチューリップ。それは、わたしたちの生活に癒しを与えると同時に喜びや新たな発見を与えてくれる。
「お花を飾る人が増えると良いなと思ってやっています。お花を飾る楽しみを見いだせないと意味がないなって。興味をひくような珍しいものから、飾りやすい日常的なものまで。季節の花はその季節で一番美しいので、多く取り入れるようにしています。日持ちが全てではないんですけど、買ってすぐ枯れちゃうと次に繋がりにくくなると思うんですよね。なので、日持ちがしないお花を選ばれたお客様には予め説明し、日持ち以外の魅力をお伝えするようにしています。興味を示していただいた方に、連れて帰っていただけるのが幸せです」。
「duft」は2023年11月にパートナーの溝口翼さんの店である「Fernweh(フェアンヴェー)」と複合店として、移転オープンをした。同フロアで花も楽しみつつ、溝口さんが独自の感性で編集するように見立てた個性豊かなヴィンテージやブランドのセレクト、さらにデザインやアート関連の本や雑貨などを楽しむことができる。メキシコ人のアーティスト、ホセ・ダヴィラの写真集を紹介していた溝口さんのインスタを見て、内装業者が自主的に仕上げてくれたというテーブルが中央に置かれた店内は、ガラスを通してduftの気配を感じることもでき、心地よい距離感が保たれているのが感じられる。長年ヴィンテージを取り扱ってきた彼のフィルターや文脈を通して、個性的で上級者向けのピースが掬い上げられ、一つひとつが抗いようのない吸引力を持って佇んでいる。
「店の中で並べてどう見えるのかを最優先に、感覚でセレクトしています。ヴィンテージには変えようのない価値がついているものが多く、記号化してしまいかねない。ですから"90年代のHermes"のような教科書的な価値を持つモノとマガイモノを同列でセレクトしています。物の良し悪しだけではなく、固有の面白さに私なりの価値を見出して、ワクワクする感覚を大切にしたいと思っています」(溝口さん)。
「複合化させた大きな理由としては、子供ができたから。それぞれにお客様がついているので、気を遣わせないように壁を作っています。“一緒にやっている推し”はしてないんですよね。ただ、仕事に対する姿勢とかお互い好きなものは近いです。花も洋服も拘りを持たなくても生活に支障が出るわけではありませんが、生活が豊かになることも事実です。ちょっと贅沢にどう楽しんでもらえるか、いかに興味を持ってもらえるかを、お客様に伝えたいメッセージとして共通しているかも知れません」(若井さん)。
2人の出会いは、彼女の人生の中でのスイッチとも言えるだろう。仕事に対する熱量や真剣さが似ているところでもあり、尊敬できるところでもある。
「彼が以前働いていたお店に花を生けに行くようになったのが出会いでした。それまでは何を着れば良いのか分からずでしたが、洋服の幅が広がったんです。幼少期から発想力がないことがコンプレックスでしたが、洋服の世界を知っていくうちに、わたしの中での花での表現方法も次第に変わっていきました。自分の想像の範疇を超えた人やモノに刺激をもらい、それが自分のスタイルになっています。お客様がお花選びをする時も、私では選ばないような花と花を組み合わせることがインスピレーションになることもあります」。
若井さんにとって2023年に起こったもう一つの大きな変化は子供が産まれたことだ。これまでは、ただ直向きに仕事に向き合っていた彼女にとって、生活を一変させる出来事だった。
「時間が全く足りません。仕事も楽しいけど、子供とも一緒にいたい。周りの友人からはアイデンティティが変わると聞いていましたが、今のところはただ強烈な癒しという存在です。だけど、子供ができてわたし自身丸くなったと思います。以前は遅くまで残って仕事をし、追い詰められていた感がありました。それが今は、保育園の時間に合わせて迎えにいくのでタイムリミットがあるし、疲れて眠る時間も増えたせいか、元気になって心にゆとりが増えました。朝3時に起きて仕入れに行く時は、彼が子供を見てくれているので、バランス良く分担して育児に取り組めています。出産後は一瞬、仕事復帰をすることが怖くなりましたが、花に触れるとやっぱり花って良いなって改めて思いました」。
マルコモンドの撮影や展示会のフラワーアレンジメントは、いつも若井さんの感性にゆだねている。
「コンセプトと色だけを伺って、許容範囲内で冒険させてもらっています。色々な魅せ方がある中で、世代によって綺麗や可愛い、華やかさの定義も変わってきますよね。その中でも、マルコモンドのお客様だったらこういう世界観が好きかなと考えて表現しています。わたし自身、あまのじゃくな性格なので、マジョリティが好きと言うものとは違うことをやりたいなって思います。変わった花を店に置いていることにも共通して言えますね。ずっと同じことをするのが得意ではないので、常に違う花のスタイルや雰囲気を研究しつつ、発信していきたいなと思います」。
常に日常から刺激を受けている彼女にとって、靴下もインスピレーションの一つ。
「靴下まで意識を持っていくことがあまりなかったのですが、マルコモンドは可愛らしさと遊び心を教えてくれました。今日選んだ艶感のあるタイツは、冷える花屋でも実用的且つテンションが上がるので重宝しています」。