房総の陶芸家、角橋俊さんの 継ぎ目のない切り替え

房総の陶芸家、角橋俊さんの
継ぎ目のない切り替え

靴下の脱ぎ履きという行為はときに人を活動へと導き、安息へと誘うもの。その存在を日常生活のスイッチに見立て、クリエイターのオンやオフを通してその創造性を紐解く。しかし陶芸家の角橋俊さんはその切り替えすら否定しかねない。自然に委ねて、形のないものを捉えてはまた形を変える創作と地続きの彼の活動には、全て意味があると同時にそれを問うことはない。

奔放な形、リズミカルな柄、可愛らしいオブジェ、伸びのびとした食器。角橋さんの作品にはどこか子供のような無邪気さが漂う。導かれた母屋には、立派な柱が一本高く天井まで伸びている。「枠だけはきっちり作ろうと思ってたんですけど、結局少しずつ最後まで作りましたわ」。笑いかけるような器が並ぶ手作り家屋のキッチンで、角橋さんは妻が用意してくれたカレーをそれらの器によそいながら、陶芸との出会いを思い返す。

陶芸の道に進んだのは、当時住んでいたロンドンの本屋での出会いがきっかけだった。日本で勤めていたときは、トイカメラの販売をしながらCDや写真集の出版をしたり、音楽イベントを作ったりと感覚を形にすることに携わっていた。そのうち「人が作ったものを売るんじゃなくて、自分で作れないかなと」思うように。興味のあることを片っ端から拾い上げ、感動すると相手にすぐに会いに行くようなタイプで、やがて渡英して後に師事するサンディ・ブラウンさんの作品集に出会った感動を伝えに行くと、快く受け入れてくれた。

「頭でっかちだとお前は。考えすぎたと。どうでも良いから黙って粘土でカップを作れと。2年間住み込みで食事を作ったりして生活しました。そこでの別の作家を招いたセッションでは、3分で30個のカップを作ったり、3分間目を瞑って作ったり、とにかく作らされるんです。それが2〜3日続いたあと、最後の2日位は何をなん時間かけて作っても良いと言われる。そうすると、今までルールとスピードに縛られていた頭がスカッとフリーになるわけですよ。そもそもフリーな状態でそのコースに参加していたはずなのに、3分30個やった後のフリーは全然感覚が違うんです。もっとできるじゃん、みたいな」。

造形物でありながらビジュアルでもあるのが陶芸の面白いところ。触って作り上げていくこともビジュアルなんだという気づきから、グッとのめり込んだ。

「一概にこういうやり方で作っていますとは言えないんですけど。サンディってどんな広い壁画でも絵でも造形でも即興的にシャシャっと仕上げちゃう。でもある時、それが自分にとってペースが早いって気付き始めたんです。自分は2日間とか3日間とかかけて形を修正して行くような、例えば四角のものを作っていたら、4日目に半分に切っちゃって違う形でくっつけちゃうとか。そういう風に1週間とか2週間とか数日をかけて変化させていく方がリズムが合うな、と気づいたんですよね。同じものに対して粘っていると一発逆転がある。6日目まではまん丸を作ってたとして、7日目に腹が立って割ってバラバラの丸になったとしても、最初の6日間の丸は必然なんですよね」。

 当然、壊すために作るわけではない。壊す衝動の言語化は難しいもので、言葉にできない矛盾や違和感こそが創作意欲の出発点ではないだろうかと角橋さんは問いかける。

「何か伝わらないなという気持ちは、他者ありきの感情ですよね。それもあるだろうし、自分自身がイライラするのはなぜだろうという気持ちもあるかもしれない。その創作意欲の場所を簡単に言葉にすることは危険なことだと思うんです。こで言語化したことで、明日からのものづくりに引っ張られる面もある。自分の人生を定義付けしてしまうと、10日後全然違うこと思ったりする自分の自由度が減ってしまいますから」。

例えばウツボ漁をしていて、網を食いちぎられた時の悔しさが行動に投影されることもあるだろう。自然の成り行きを受け入れ、潜在的・直感的に向き合う真摯なこころで向き合えてこそ完成する。

「サンディのコースにアシスタントとして参加していた頃、可愛らしい好きな子ができて、ものすごい意識しちゃったんですよ。パッと作ったら『意識して気を引こうと思って、今までの良かった面を集大成として入れたものを3分間で作ったでしょ?』って見透かされました。サンディの作るものはそういう邪念じゃない部分から出てきているような気がするんです。これも言語化できているか、正しいかわからないけど、彼女の作品に惹かれた気分とどこか関係している気がするんですよ、僕が綺麗な女の子を意識して作ってそれがバレちゃったっていうことと」。

海の近くに住んでいるのは、イギリスに住み込みをしていた時の環境と似ているからだけではない。出自が不明でも履歴書がなくてもそのままおいでと受け入れるときがあれば、冷たく突き放すときもある。誰にでも平等な海という存在は、いうなればお父さんとお母さんのようなしっくり感があるという。『自分の環境と風土に影響されながら生きていく』という、漁を教えてくれた大切な知人の言葉を胸に携えて生きる。そんな継ぎ目のない切り替えこそが、角橋さんのトランジションなのだろう。

「12月から、ハバノリの収穫が始まるんです。潮が引いた岩場に生えるんですけれど、冬は潮が夜に引くので頭に懐中電灯をつけてやる。夜は波が全く見えないので、さらわれちゃったりしてマジ危ないんです。でもね、ギャンブルみたいなもんで、もう楽しいってしゃあないんですよ。で、これも説明できないんすよ」。

自宅奥の作業場には様々なところから届いた土が20種類以上並ぶ。作品には、イギリス時代の即興作品を壊して入れることもあるし、訪れた場所で収集した土を混ぜたりもする。筒のようなものを作ろうかな、と作り始めては数日後に崩してみたり、なにか別のものに手を付けてみたり、ざっくりと進めていく。

「できた、と思う瞬間はないですね。展示があったり、この日までに作ってくれって言われて、もう1回焼く時間も金も土もない、ほな、もうこれでいい、じゃあこれだ、って。永遠に作り変えられるんですよ。地球って実はそういう存在でしょ。マグマの下に入っていってずっと循環し続ける」。

近くの海岸にあるタコ公園の滑り台はお気に入りのスポットだ。「ここらへんのおじいさんが子供の時からあるらしいっす。これも偶然の集積っていうか、当初意図した形やけど、壊れてきたとこは完全に予知できないじゃないですか」。岩場では竹竿を持って伊勢海老が捕れる。アワビ、海苔、ひじき。その時どきの食べものを獲って食べることに魅了され、命がけでいただいた命がエネルギーとなり、内側からくる衝動が土に溶け込んでいく。自然のはぐくみに合わせたこころは、世の中を取り締まる言葉たちに警鐘を鳴らす。

「コンセプトっていつの時代に出来た概念やろうと思って。法律にとって重要やったはずが、いつの間にか自分がやるプロジェクトとか生き方とかに当てはめるような使い方になっちゃってて。コンセプトって投げられると、なんかもう固まっちゃう。で、かっこつけようとするんですよね。 ウツボ取りに行くぞとか、アワビを先輩の海女さんと一緒に獲りに行くぞとか、それはもうわかりやすいじゃないですか。永遠に広がっていく思念とか感情とか行動を取り上げて“律する”って言われても、よくわかんない。自分は、土で作ることも、食べものを獲りに行くのも直感的にそうせざるを得ないというか。引きずられるように魅了されていて、なぜこんなに過酷な海に行くのか理由すら整理できていないんで、日々、そのまま生きるっていう感覚の方が強い気がしますね」。


角橋俊

感情と音楽に誘われティーカップや皿など生活用品からつぼやオブジェなど幅広い制作を行うアーティスト。千葉の房総で作陶しながら漁師としての活動も行う。


Photographer:Shota Kono  Instagram
Production:Little Lights  Instagram

Wearing Items

[MARCOMONDE]
heavy duty cotton socks 25

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